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下鴨納涼古本祭りへ行ってきました。

下鴨納涼古本祭りへ行ってきました。
出町柳駅のほうから、"鴨川デルタ"と呼ばれる二つの川の合流地点のほうから、下鴨神社境内に入っていきます。

看板。



緑の屋根に覆われた馬場にはずらっと並んだテントと、本を探す人々。
むせ返るような緑のにおいを凌ぐ、古本の、あの、香りです。
あの30年モノのウィスキーのようなあの香りが、馬場にほんのり立ち込めています。

その緑の屋根のおかげで(その日は曇っていたことも一因するかもしれませんが)、光はあまり入ってこず、
むしろ薄暗いじめじめした、しかも日陰なのにものすごく蒸し暑い中、老若男女がうちわをあおぎつ、本を探していました。
しかもいつ雨が降るともわからない状況で(この日は予報では雨でした)!
人々が本にかけるその情熱よ。


基本的に白いテントの下に、各々持ち込んだ木の書棚、光がさえぎられる場所には裸電球。
お店の店構えは街で古本屋めぐりをしているときとは違い、どの書店が浮いてる、個性がある、などの差異はほぼ無く、
それだからこそ、本の内容を一瞥しただけでお店の個性が強烈にわかる。
これもこの古本市の面白みのひとつではないかと思いました。

基本的にどのお店も木箱タイプの積み上げられる書棚をお持ちになっていることが多いようですが、
中にはこういったラフに積み上げてある一角も。

これはこれで掘り甲斐がありそうでワクワクしますが……。


この日は結局、ちょこちょこ移動しながら(移動した先々で蚊に食われながら)、数冊購入。
ちょうど京都に滞在していた友人と鴨川沿いでビールを呑んで帰ってきました。


あと数日、京都に滞在できれば、あと何回か行って数冊買い、シメに五山の送り火を見ることも叶ったのですが、
個人的には数年ぶりに夏休みらしい夏休みをもらえたので、それだけでも良しとしましょう。
古書の名店ひしめく京都の一番有名な古本市とあって、ほかにも語りつくせぬ魅力があるように思いますが、
毎年、無理なら二、三年に一度は来て、何個か魅力を発見し、いいと思い、
また来よう、と思うほうがなんだか楽しい気がしました。


また来よう。

買った本たちは夏が終わる前にはアップしようと思います。
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「さいはて」の本





 「さいはて」は存在するのか。現実的なことを言ってしまえば、地球は丸く、宇宙は無限に広がっているとされている以上、この世界に果てはありません。日本含めアジアは時折「極東」(fareast)、つまるところ「東のはて」と呼ばれることがありますが、これは西洋から見た東のはてであって、日本地図ではアメリカが「極東」にあたることになります。絶対的な「さいはて」なんて無い。しかし、自分の立場や思想の方向性を明確にする(良くも悪くも、"縛られている"と言うべきでしょうか)ことで、相対的な、おのおのの「 さいはて」が急に立ち現れてきます。

 「限界なんてない」、などと、ありがちな自己啓発書や売れないJ-POPによく出て来そうな言葉がありますが、人間が人間として生きている以上、必ず「限界」はあります。人間、というフォーマットに"縛られている"以上、人間は空は自力では飛べないし、万物の謎の一切を知りえる人間など存在しないのです。その「 限界」があることで、あらゆる「 さいはて」が見えてきます。

 「さいはて」の本を選ぶにあたって、最初に思い浮かんだのは、阿部薫というアルトサックスプレイヤーの存在でした。日本人ジャズの、特にフリージャズという分野に特化し、時にはギターやハーモニカ等も演奏、楽器表現の可能性を極限まで追求し、夭逝した伝説的人物です。彼もまた、楽器とインプロビゼーション(即興演奏)に"縛られた"ことで器楽表現の極地に到達したのではないかと思います。
 ところが、プラトンのイデア論のように、「さいはて」も絵に描いた線のごとく、観念的なものとしてしか存在しないので、阿部薫のそれは本当に極地と、「さいはて」と言えるのか?まだ見ぬ「さいはて」があるのではないか?と言い出せばきりがありません。しかし、彼が「さいはて」を志向したことは事実ですし、大勢の評論家、ファンが認めている点からも、今後どれだけ更なる極地に到達するものが現れても、彼が「さいはて」に到達した最初の人として語り継がれることは間違ってはいないことだと思います。

 原理的に「さいはて」は無く、さらに"縛られる"ことで表出するイデアである「さいはて」に到達したとしても、それが本当に本当の「さいはて」なのかどうか、実際にはわからない。そう考えてみるといよいよ「さいはて」など存在しないように思われてきますが、阿部薫のように「さいはて」を追いかけ、その糸口を掴んで見せた男もいます。ここに大きなポイントがあります。
 「さいはて」を志向することは、あるのかどうかわからない夢の世界を追求することです。最高にロマンチックな態度ではありませんが。最終目標を設定して、そこに向けて努力し、達成しているか否か再確認する、などという今日ビジネスの現場で当然のように使われている合理的な思考とは似ているようでまるで違います。後者は目標を設定する時に自分の限界を考慮してしまう点で「さいはて」を目指す態度とは一線を画していると思うのです。どこまでいけるか解らない、けど行く、という向こう見ずなロマンシズムがないと、「さいはて」はたち現れないのです。

 ある程度縛りがあること、どこが限界かわからないけどやってみること。「 さいはて」のある場所には少なからず条件があることはわかりました。しかし依然として、それがどこにあるかはわからない。だからこそ追いかけ甲斐があるのかも知れません。

 今回は『「さいはて」に飛んでいった男の話』、『「さいはて」を見ようとした男たちの話』、『「さいはて」を解ってしまった者たちの話』を選んで参りました。努力に努力を重ねて果てに到達したものもいれば、フワフワと自由にしていたらいつの間にか果てにいた、というものもあります。わからないものですね。
 「さいはて」はどこにあるかわかりませんが、いつか今よりももうちょっと、近いところくらいには行ってみたいものです。

「日常を忘れさせてくれる」本









 「非日常」は日常のすぐ裏側にある。いつもと違う、見たことのない場所に行けば、それはもう非日常だし、会ったことのない人に会う、場所は一緒でも時間が違う、などなど、「非日常」は「日常」とコインの裏表であり、「非日常」は「日常」がなければ存在しないものです。
 
 何故、私が本を読む、ないし本屋に行くのが好きなのかを突き詰めて考えると、「日常を忘れていたいから」というところに尽きるような気がしています。日常がそんなに嫌か?と聞かれると、嫌と言えば嫌かも知れないけど、毎日ごはんも食べれているし、つらい事もあるけどもちろんいい事もあるし、そこまでひどいものでもありません。
 では何故本に「非日常」を求めるのでしょうか。それはきっと現実の世界と、本の中の世界と、二つも(もしくはそれ以上、際限なく!)自分の世界が持てるなんて贅沢なことは他にないからでしょう。本を読む、それによって忘れたいときに日常を忘れ、別の世界に行き来できるなんて、考えてみれば最高に贅沢なことではないですか。

本なんて、実際無くても生きていけるのかも知れません。ですが、"本"というものが出来てから今まで、時には戦いながらも人々は本を手放さなかった。
 「本は今までの人類の血と汗と努力が生んだ結晶なのだ!」などど大それたことを言うつもりはありません。日常をふと忘れて、一瞬で別の世界を生きることができるなんて、そんな面白いものを手放す理由がないなと思うのです。そもそも本は「日常を忘れるため」に発明されたものではないというのが本来は正しいのでしょうが、「日常」を一時忘れて「非日常」の世界へ行ってくる、そして一瞬でまた戻ってこれる、なんて贅沢で楽しいものは他にないと思います。

 しかし、一方で思うのは、もし日常がもっとメルヘンチックな世界だったら、本は今の通りに存在していたのだろうか?ということです。毎日違う場所へ違う場所へと移動する旅人のような日常だったら?毎日日替わりで奇人、変人、凡人、いろんな違う人に出会ってばかりの日常だったら?突然過去、もしくは未来にタイムスリップしてしまったら?毎日がそれほどめまぐるしかったら本なんて読んでいる暇はないかも知れません。やはり、忘れるべき「日常」を用意しておくこともまた、本読みにとっては重要なことなのかも知れません。

 今回のセレクションは基本的には普段出会わないだろういろんな人、場所、モノ、時間が登場するものを中心に選ばせていただきましたが、柳宗理『エッセイ』だけはあえて日常丸出しの一冊になっています。それは今書いた、「世界を二つに保つため」の一冊としてもご提案したかった本ですが、デザイン、しかも身近にあるものの形、風合いの良さを再発見し、驚き、面白がる、つまり「日常」に「非日常」を見出すこと、"ものの見方"だけで日常を「非日常」にしてしまうということもまた本の大きな魅力なのではないか、という考えによるものです。

 この本たちが素敵な「非日常」と「日常」に色を添えるものになることを心から願ってやみません。

「ポジティブな死」に関する本





 「ポジティブな死」。この時点でもう「死」に対してネガティブな感情が滲み出てしまっています。当然、死ぬのはこわい。しかし、「死」に対してポジティブな感情というのは存在するのでしょうか。

 今回の依頼を承った時に最初に頭をよぎったのは、メキシコの"死者の日"の話でした。日本のお盆と考え方は近いですが、骸骨と花を飾って楽しく祝うというあのお祭りです。"死者の日"はメキシコの人々の死生観を表出させたもので、「生」の象徴たる「死」がそこにあるような気がします。

 日本にも、お盆に見られるように、今ここにある「生」は大きな"祖霊"の一部でしかなく、「死」はその"祖霊"へと返り、一体化するためのプロセスでしかない、という祖霊信仰がありますが、その考え方は何かあればバンバン腹を切っていた時代よりかは薄れてきてしまっているように感じます。

 ジャズの聖地ニューオーリンズでも独特の葬式があります。墓場までの道のりを家族、友人がパレードするのですが、家から墓までの行き道は重々しい葬送歌で故人を送り出し、帰り道は底抜けに明るい賛美歌やヒットソングで故人の魂が天国に行ったことを祝福するというもので、これには遺族や遺された関係者の気持ちも救われるというシステマティックな面もありますが、個人主義のアメリカにおいて、自分と他人(家族・友人)の境界線を「死」が取り払っていくかのような葬式のスタイルには意外性があるように思います。

 上の、三つの「死」に対する考え方、捉え方から考えたのは『「死」はいいものでも悪者でもない』というニュートラルな態度こそが、「死」に対して一番ポジティブな態度なのではないか、ということでした。「死」はプロセスであり、自然であり、「生」の象徴であって、そこには良いも悪いも無いのだと。そこで、「生」と「死」の境界線をもんやりととさせるような、「死」と「生」という表裏一体の現象を肯定的に捉えられる本を選ぼうと考えました。
 
 自殺を身近なものとして紹介し、自殺自体を決して頭ごなしに否定しないという態度から「生」と「死」について考えさせられる末井昭『自殺』。
 「死」を忘れる、否、「死」「生」とが同一になるくらいのパッションで「生」の側を描いた伊藤勝彦『愛の思想史』。

 もう一冊は、「驚き」について選んだ本です。国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』に出てくる主人公が「常に"驚き"の目でこの世を見つめていたい、"驚き"のない人生など金持ちも貧乏も同じである」というようなことを言っていて、生きているうちにどれだけその「驚き」があるかが「死」に向き合うひとつのポジティブな態度であるように思えてならず、"常に驚いている人の本"である『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』を選ばせていただきました。

 難しいテーマでしたが、今回改めてわかったことは「死の隣には、常に生がある」こと。心から「生」を生きなければ、自分が死んだことになど気付かない、なんてこともあるのかも知れません。心底、死ぬほど生きていたいものですね。

「祈りと救い」の本





 『"祈り"は何も特別なことではなく、日常が即ち"祈り"の一形態である。それは、何も考えず、働く機械となって粛々と日常を"こなす"態度のことではなく、日常というものに対して明確な意思を持って、いい方向へ、いい方向へと持っていこうとする気持ちを抱き、日常を"生きる"態度にこそ宿る。』
 
この、ひとつのアイディア、考え方のもと、本を数冊選んでみました。

 日本には古来から、「ハレ・ケ・ケガレ」という考え方がありました。「ケガレ」、即ち死や病気、と「ハレ」、即ち祝祭的儀礼が裏表で存在する一方、その間には「ケ」という、「ハレ」や「ケガレ」である時間よりも圧倒的に長い時間のつつましやかな日常があるのです。そこでは日常が"祈り"の大きな大きな延長であり、日常に"祈り"があるからこそ、ふとした瞬間に訪れる"救い"があるのだ、というようでもあるように思えます。
 不定期でやってくる「ケガレ」は、定期的にやってくる「ハレ」により削がれ、また長い長い「ケ」に戻ります。日常の中にある"救い"のほかにも、きちんと"救い"が定期的に訪れる機能的な考えでもある訳です。今の世の中においては、「ハレ」と「ケ」の区別が薄れ(特に東京などという喧騒の街においては!)、定期的な"救い"が機能しづらくなっていると思いますが、日常の中にも"救い"があって、それを"救い"として認識するには、日常に、「ケ」に、どれだけ"祈り"があるかによるところなのではないでしょうか。

 "祈り"は常に自分から発せられるわけですが、"救い"は常に彼方からやってきます。"祈り"はいつでも自分の側にあるのです。一方"救い"は"祈り"に沿って、あるいは全く意に沿わないかたちで、突然やってくる。それを"救い"として認識できるかが「ケ」、即ち日常を過ごす態度に関わってくるのではないかと思うのです。

 "祈り"をもっと自分の傍に、美しくはかない"救い"のために。この本たちが清らかな"祈り"の一助となれば幸いです。