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「さいはて」の本





 「さいはて」は存在するのか。現実的なことを言ってしまえば、地球は丸く、宇宙は無限に広がっているとされている以上、この世界に果てはありません。日本含めアジアは時折「極東」(fareast)、つまるところ「東のはて」と呼ばれることがありますが、これは西洋から見た東のはてであって、日本地図ではアメリカが「極東」にあたることになります。絶対的な「さいはて」なんて無い。しかし、自分の立場や思想の方向性を明確にする(良くも悪くも、"縛られている"と言うべきでしょうか)ことで、相対的な、おのおのの「 さいはて」が急に立ち現れてきます。

 「限界なんてない」、などと、ありがちな自己啓発書や売れないJ-POPによく出て来そうな言葉がありますが、人間が人間として生きている以上、必ず「限界」はあります。人間、というフォーマットに"縛られている"以上、人間は空は自力では飛べないし、万物の謎の一切を知りえる人間など存在しないのです。その「 限界」があることで、あらゆる「 さいはて」が見えてきます。

 「さいはて」の本を選ぶにあたって、最初に思い浮かんだのは、阿部薫というアルトサックスプレイヤーの存在でした。日本人ジャズの、特にフリージャズという分野に特化し、時にはギターやハーモニカ等も演奏、楽器表現の可能性を極限まで追求し、夭逝した伝説的人物です。彼もまた、楽器とインプロビゼーション(即興演奏)に"縛られた"ことで器楽表現の極地に到達したのではないかと思います。
 ところが、プラトンのイデア論のように、「さいはて」も絵に描いた線のごとく、観念的なものとしてしか存在しないので、阿部薫のそれは本当に極地と、「さいはて」と言えるのか?まだ見ぬ「さいはて」があるのではないか?と言い出せばきりがありません。しかし、彼が「さいはて」を志向したことは事実ですし、大勢の評論家、ファンが認めている点からも、今後どれだけ更なる極地に到達するものが現れても、彼が「さいはて」に到達した最初の人として語り継がれることは間違ってはいないことだと思います。

 原理的に「さいはて」は無く、さらに"縛られる"ことで表出するイデアである「さいはて」に到達したとしても、それが本当に本当の「さいはて」なのかどうか、実際にはわからない。そう考えてみるといよいよ「さいはて」など存在しないように思われてきますが、阿部薫のように「さいはて」を追いかけ、その糸口を掴んで見せた男もいます。ここに大きなポイントがあります。
 「さいはて」を志向することは、あるのかどうかわからない夢の世界を追求することです。最高にロマンチックな態度ではありませんが。最終目標を設定して、そこに向けて努力し、達成しているか否か再確認する、などという今日ビジネスの現場で当然のように使われている合理的な思考とは似ているようでまるで違います。後者は目標を設定する時に自分の限界を考慮してしまう点で「さいはて」を目指す態度とは一線を画していると思うのです。どこまでいけるか解らない、けど行く、という向こう見ずなロマンシズムがないと、「さいはて」はたち現れないのです。

 ある程度縛りがあること、どこが限界かわからないけどやってみること。「 さいはて」のある場所には少なからず条件があることはわかりました。しかし依然として、それがどこにあるかはわからない。だからこそ追いかけ甲斐があるのかも知れません。

 今回は『「さいはて」に飛んでいった男の話』、『「さいはて」を見ようとした男たちの話』、『「さいはて」を解ってしまった者たちの話』を選んで参りました。努力に努力を重ねて果てに到達したものもいれば、フワフワと自由にしていたらいつの間にか果てにいた、というものもあります。わからないものですね。
 「さいはて」はどこにあるかわかりませんが、いつか今よりももうちょっと、近いところくらいには行ってみたいものです。
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